臼作りのため、山からとても太い欅を切り出しました。
それはそれはお見事な欅。
盛木材の裏の里山で二年前に切り倒した欅、3~4本分。

(まっすぐに切る。その姿勢。90㏄のエンジンは一発の爆発力とトルクが半端ない!プロの道具。使わせてもらった。カット後のアドレナリン放出量のもの凄いこと。顔がブワーっと熱くなった。)
それを4メートルほどにチェーンソーで切り、
ポンポンという、山から伐木を運び出すキャタピラー走行の機械でおろし、
平地で2寸サイズ(60センチ)に切っていく作業。

ポンポン
・・・何よりも、
盛木材の山の仲間たちと作業をともにできたことは素晴らしい経験だった。
一瞬のミスが死につながるため、
一つ一つの動きの正確さ、先を見越した危険回避、
ここという時のまなざし、身体の使い方、
全てにおいて無駄がない。

(極太の欅をポンポンにクレーンで乗せる。緊張感に包まれる。ポンポンの音はしているものの静寂。)
その緊張感に命、という僕ら生命体の、すっかり遠くに置き去りにしている出来事を発見する。
生き、生かされる、、、
僕らの進化は危機を克服してきたという長い歴史の背景がある。
一瞬のミスが死につながるという作業を終えたときに、
また新たに生の前向きな心持ちをグッと拳を握るような反射で感じることができる、、、
これを毎日やっているのだから、
山仕事をしている人たちは、少し向こう側に死があるという、
ごく当たり前の「生」が宿っているんだと感じました。
(漁師さんなども同じマインドなのだろう)
この人たちが切り出した欅で臼を作ることの意味合いが深くなった。
前回のブログに書いたように(こちら)
美味しいお餅を自分で作った臼で食べたい、という楽しみは多分にあるものの、
その臼でついたお餅で鏡餅を作り、
年神様を迎え入れる、、、
年の初めの、感謝と祈り。
自分たちがおのおの作った臼で、
自分たちの、友人の、隣人の、愛すべき人達のために、
健康、幸福を祈念して鏡餅を作る。
僕ら一人の存在は、
宇宙全体のひとかけらに過ぎない。
巨大な宇宙の平和を祈るのと同じく、
小さなひとかけらに過ぎない僕らが一つ一つ周囲の、
気の届く範囲のなかで、健康、幸福を祈り、
鏡餅というみえる形で心をシェアするのは、
ローカルな霊性の実践としてとても実のあるものだと思う。
その命を吹き込む切り出しという作業に、
盛木材の仲間たちとできたことは大きな価値がある。
このミラクルな出会いに感謝!
何気に始まった臼作りだけど、
作業をしている間のハート感というのかな、
緊張と遊び心と希望と、
さまざまな前向きな想いが交差して、
いい流れができてきているのを感じとりました。
来年は荒削りと臼のまわりの加工、
杵つくり、、、
ここからでも良かったら参加してくださいね。
三年という先の長い作業。
時がかかるけれど、
そろそろ鏡餅くらい餅つき機に任せずに自分の手で搗きたい。
自分の育てた臼で。
さて、、、
しばらく餅のことを考える時間が多くあり、
それはひたすら餅の食べ方のことでした。
おろし大根、納豆、あんこ、きなこ、、、
オーソドックスな食べ方はすぐに頭に浮かぶけれど、
これ以外の食べ方でスタンダードになったものが思い浮かばない。
ポテンシャルはあるのに、食べ方が画一的?
餅ピザがあるように、
トマトソース的なものはどうだろうか?
ニョッキみたいにもできるかもしれない、、、
そもそもご飯と同じ考えで、ご飯のお供なら混ぜやすくすればいけるかもしれない、、、
無限大に想像膨らむ。
ああ、最高。
みんなでついた餅で、あれこれ試作しながら食べるのもいい。
レシピ募集中!
三年目、臼と杵が仕上がるタイミングで、
もち米づくりができればいいなと夢想中。

4本中3本は欅特有の後光(五光?)割れ(ゴコウワレ)という現象でチェーンソーで切ったそばからパキパキ音を立てて割れてしまった。ひびが強すぎて使えず。

模様はきれいなんだけど、、、

この一本が筋が良く、使えた。

60センチにまっすぐカット。

大中小、合わせて5本が取れた。これを一年乾燥~

模様のいい部分を厚さ10センチほどにカットしてもらい、お土産に。テーブルか何かに使おう。嬉しい。

盛ちゃん、ジョージ君、カール