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ハナムスビ オフィシャルブログ

豆料理のレストランを経て、ここ伊那谷で生活を一からスタート 自然の循環の輪に入れさせてもらえるうよう

補植と落ち穂拾い 

ようやく前半戦の山を越えたところ。

ホッと一息

5月27日から三日間の田植え。
その後、補植(倒れている稲を起こし、植え忘れていたスペースを発見して植えたりする作業)しつつ、ヒエの早速の猛攻に対峙していた。

去年作った、竹ぼうきを改造した田んぼ専用ほうきに効果があったから、集中的に生えているところをガシガシ、表面の泥をひっかくように動かした。根が浅いうちのヒエは、ほうきの先の程よいしなりに上手く表土からはがされる。はがされたヒエはそのまま水に浮かぶので、そうなれば再生しない。

ここでの身体の動きは田植えと違って腰を曲げず直立でいられる。ぬかるみの中で足のバランス感覚を研ぎ澄ませながら、オールをこぐようにほうきで表土を掻く。車が横を通るたびにジッと見ていくのだけど、それはきっと、「なに、田んぼを掃除してんのか?この人は?」とビックリしているのだろう、不思議な光景だ。

一息。

今年の田植えでの気づきは大きなものがあった。

なぜ、毎年米作りをするようになったのか?
相変わらず直観と行動の隙がない生を送っているせいか、気づきはゆっくりと訪れる。

最高に気持ちいい。

これだけのことだった。
身体をフルに動かして、数多の生命を請け負い、自然のキャンパスに想いを描く。
家族、来てくれた仲間、そしてその多くのつながりに感謝しつつ、豊作を願う。

それ以外、何があるというのだろうか!

やはり身体の設計図は身体を動かすようにできている。ご先祖さまから連綿と積み上げてきたその仕組みに沿って動かせば、身体は喜ぶものなんだ。

田植えのあいだ、僕の気持ちは、この広い田んぼに三日で植えきること、その段取りに追われていた。実際田んぼに入っているときは、身体の動かし方、4列が良いのか、5列は欲張り過ぎなのか、植えるときの指の角度、苗をちぎるときいかに根を残すか、、、いわゆる左脳系が稼働していた。
もちろんそこに祈りを込めているのだけど、どうも、「いかにこなすか?」が占めていたようだ。

さて、予定通り三日で田植えが終わり、さあさあ、補植だと勢いに任せて田んぼに入っていたとき、変化を感じた。数多の生命を無事、田んぼというフィールドに移動できたこと(来てくれた仲間の手伝いなくしては無理でした。ありがとう!!)、身体が無事に持ったこと、事故なくすんだこと、多くのクリアすべき課題から解放され、ゆっくりとヌカルミを踏みしめ、空いているところに一本一本丁寧に植えていると、祈りの深度が違うことに気が付いた。

まずもってハイだった。
ランナーズハイがあるように、田んぼハイがある。
家族一年分の膨大なカロリーを得るために、膨大なエネルギーをもって向かい合った。
その山を越えたときの余韻ったら!

この余韻が時の縛りを開放してくれるのか、ここにいるのでも、どこにいるのでもなく、ただただ、一本植える度に37兆個の細胞が放つ祈りがヌカルミのブラックホールに吸い込まれていくのを感じた。

僕らは何か祈りをささげるとき、空間を介してテレポートするように思っているフシがあるけれど、土を介して、あるいは重力を介して祈りが伝達することもあるんじゃないかと思った次第。

補植は、田植えが終わったあとの、時間的、体力的余裕でやるものだから、面倒くさいとやらない人も多い。

でも、一年、それなりに苦労して作るのだから、少しでも空いているスペースがあれば植えていきたい。欲でもあるし、もったいないという心でもあるし、何よりも、この余韻と時の感覚が好きだ。

それは落ち穂拾いも同じで、稲刈りという大きな仕事が終わった後、その余韻でやる。もちろんやらなくてもいい。ただ、その余韻と時の感覚に深く入っていく、ある種の心地よさ、それは祈りの本質なのだろうか、ただすべてを受け入れ、感謝をささげる、、、
普段の生活で日常の些事に追われていると、そう簡単にできることではない。

今年の田植えは、補植と落ち穂拾いという、本流ではない支流の目立たない流れに、永遠を見出すことができた。

自然との共生、というと頭では分かっているものの、雲をつかむようでわかりにくい。
身体をフルに使って自然と向き合ったとき、その後に来る高揚感が身体とその取り巻く環境(自然)を一つにさせてくれる。

自然に入る
身体をフルにつかう

そう進化してきたし、
これが祈りの民である僕らの本質なんだと思う。

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